全身小説家 映画ネタバレ感想&考察

注意! ネタバレあり〼

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作家井上光晴氏の晩年を追ったドキュメンタリー。

監督はあの原一男さん。

原監督といえば、ドキュメンタリー作家の養成塾を開催して、一般の人達に映画製作を教えているというイメージがある。
他人にモノを教える人というのは、他人に関心がある人だと思う。愛情がある人だと思う。

今回の映画の主人公、井上光晴氏も「伝習所」と名付けた塾を全国で開き、一般の人たちを相手に、小説の書き方や考え方について熱心に教えている。
塾生に対して本気で怒っている。凄いエネルギーだ。
他人と真摯に向き合っていなければ、このように怒ることはできないだろう。
優しい人なのだろうとは思う。

とは思うが、結構メンドウくさそうな人でもある。

しかし、男女ともに信者が多い。
言ってみれば、塾生は井上信者の集まりだ。
中でも女性(熟女)からは、恋愛対象として物凄くモテている様子。
インタビューに答える女性たちの口ぶりは崇拝に近いものがある。

私は寡聞にして作家井上光晴氏の事を何も知らなかった。
何故、こんなにモテるのか?
ドキュメンタリーを観進めるうちに、少しだけ分かったような気がした。(分かっていないような気もする。)

井上光晴氏は「嘘つきみっちゃん」だ。

過酷な人生を歩んできた人だと思った。

子供の頃には霊媒師のバイトをしていた事もあるという。
そこで、外国人客に対して外国語での口寄せが出来なかったため、お客はインチキだと言って怒って帰ってしまった。
そこそこ人気もあり、遺族に対して良かれと思ってやっていたつもりだったのが、言語の違いというリアリズムを叩きつけられ、インチキ霊媒というフィクションが暴かれたのを痛感したという。

その体験から、井上氏は言う。
「フィクションの根底はリアリズム」であると。
「欲求(嘘)フィクションとリアリズムの関係を、想像力によってどうするか、それが一番難しい、小説の技術、」

この映画は、1989年頃からカメラを回している。
時代が写し撮られていてオモシロイ。
特急列車「白鳥」が敦賀駅に滑り込む様子や、当時の住宅の様子、作家野間宏さん(ヴィジュアルスゴイまさにTHE小説家)、同じく土方鉄さんなどの姿も映される。

井上光晴氏と親交の厚かった作家埴谷雄高氏もたびたびインタビューで出演している。
曰く、井上氏は3割バッターらしい。いいなと思った女性全てを口説き、10人口説いて3人うまく行くという事らしい。

しかし、これがモテている理由ではないような気がする。

ガンの再発により井上氏は死に近づいていく。
しかし、生きる事にしがみつき、「死にたくない。悟りもへったくれもない。」と明るく吐露し、連作も書き続けたという。
むくみも出て、すごくしんどい時期だったろうと思う。
それなのに皆を気遣うのはすごい精神だと思う。
「こんなに人がしてくれるのだから、自分もそれに見合う何かをしなければいかんのではと思う」その心根の美しさ。
そして塾生に向かって、厳しい言葉で以て「性根を据えてかかってこい」という。
自分の命を削って相手しているのだから、塾生も覚悟を持って対峙しろと。

だから埴谷氏も諦めたように話すのだろう。
伝習所によって「井上の時間が奪われて、書くものが失われた。その井上のエネルギーが伝習所の人に与えられた。」と。

そんな心根の人だから、井上氏を慕って人が集まるのだろう。

井上光晴氏は激しい人だ。
伝習所に通い、井上光晴氏を慕う女性も激しい人々だ。

井上氏が他の女性と仲良くしていると、嫉妬を掻き立てられて、小説を書きたいとすごく思うようになったと話す女性。
嬉しい言葉をかけてくれると言う女性。

内側に眠る自分を呼び覚ます人間。それが井上光晴氏なのではないだろうか。

井上光晴氏の娘であり作家の井上荒野(あれの)さんが、自身の作品(父と母と瀬戸内寂聴さんの三角関係をモデルにした小説)『あちらにいる鬼』についてのインタビューで、 この作品を書くにあたって興味深いことを語っていた。

自分や家族の事を振り返ったというよりは、自分にとって小説を書くとはどういうことなのかを考えました。

好書好日:井上荒野さんインタビュー:https://book.asahi.com/article/12122549

つまり井上光晴氏は、 亡くなってもなお、向き合う人の眠っている情念を呼び起こし、その人を動かす何かを持っていた。

だからこそ人を惹きつけ、だからこそモテたのだろう。

映画が進むにつれてだんだんと、井上氏の経歴が嘘だとわかってくる。
生まれも育ちも、フィクションとリアルが混在している話。
霊媒師のバイトもなかったらしい。
一体何が本当なのか?

敗戦後、もう一度大学へ行くかこの社会を転覆するか、井上氏は考えたという。
そして、社会を転覆する道を選んだ。

「社会を転覆する」とはつまり、妄想と現実の転換であり、フィクションとリアリズムの交差であった。

埴谷氏は言う、「よく嘘をついてくれたと、僕みたいに面白がっていればいい。」
井上氏の嘘を暴くことは野暮なのだ。
共産党時代の仲間の女性は笑顔で話す。「すぐバレる嘘、それも踏まえて必要な存在、そっとしておいてください。」
嘘は嘘のままでいい事もある。

近しい人にはどこが嘘だかすぐにわかる。
「空想の世界」だと実妹が笑う。

井上氏自身が語る人生のほとんどが脚色だった。

まさに「フィクションの根底はリアリズム」を体現していたのだ。

ここにきて、タイトル「全身小説家」が恐ろしいほどに意味を帯びてくる。

作家埴谷雄高が作家井上光晴を“全身小説家・井上光晴”と呼んだことに由来するタイトル。
作家とは空恐ろしいものだと思った。
全身全霊、人生をかけて壮大な小説を書いているのだ。

周りの人間はだれ一人井上氏の嘘を怒っておらず、それどころか、嘘と分かっていながら付き合っているのだ。

あるシーンで井上氏はこう言っていた。
「誰かを傷つけようと思って嘘を言っていない。良かれと思って嘘をつく。」と。

1992年5月30日 井上光晴氏 永眠 66才

弔辞を読むのは、性抜きの男女の友情を育んだと言う瀬戸内寂聴さん。

猛々しい悪霊になっていつまでもこの世に魂魄をとどめ荒れ狂い、人類の差別を世界の不条理を文学の退廃を指摘し断行し続けてください。この世で書かれざるあなたの文学の最終章を、私たちの耳にあの朗々とした声で聞かせ続けてください。永遠にあなたの生命が生き続けますことを。

映画「全身小説家」より

あまりに酷すぎる弔辞ではないか。
死してなお修羅を生きろと言うのか。
それは酷すぎる。

でも、とても近くにいた寂聴さんが言うのだから、井上氏がそう言ってもらいたい人だったのか。

とか思い悩んでいたら寂聴さん、性抜きって言ったのに不倫関係にもあったんだって。
出家したのも井上氏との関係を清算する意味もあったとかなかったとか。

そう考えると、この弔辞でさえ、フィクションとリアリズムの交差した言葉なのかもしれない。
真面目に考えた私がバカだった。

結局誰もがリアリズムを根底にしたフィクションを語り、作家って信用できないっ!
でも、だからこそ惹きつけられてしまうのかもしれない。

「僕は相手を不幸にするために(嘘を)やったわけではないよ。相手を少しでも、何て言うか、幸せにするような感じでやってたわけ」
真っすぐにこちらを見つめて、井上光晴氏は至極マジメに言うのだろう。

一番近くで井上氏と過ごした奥さんが本当に不思議だし、一番すごいのは奥さんのような気もするけど、娘の荒野さんから見ても「母がどういう気持ちでいたのかが大きな謎」らしい。
「妻」という立場に何か秘密があるのだろうか。

この映画は、優しい人が激しい小説を生きた記録である。


U-NEXTでも観られます。

本ページの情報は2019年11月29日時点のものです。
最新の配信状況は U-NEXT サイトにてご確認ください。

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監督・撮影:原一男
製作年:1994年